語彙と常識

国語の力で藤島高校・高志高校・福井大学附属に合格する塾

夢盟塾福井校 塾長の原谷です。

 

夏の甲子園、中止になりそうですね。

仕方ないと思いつつ、元高校球児として、残念な気持ちでいっぱいです。

 

 

さて、「甲子園」で思い出した、国語のお話し。

以前、国語の長文問題の中で、「甲子園を目指す」という内容の文章がありました。

 

これって、前提となる知識が必要ですよね?

文章の中に、語句の説明の中にも、どこにも

 

甲子園…高校生の硬式野球の全国大会の通称、またはそれを実施する兵庫県の球場名。

 

というような説明はありません。

野球という言葉すらありません。

誰でも「甲子園」と言えばわかるだろう…と言うことなのかもしれませんが、知らない子もいますよね?

その知らない子は不利になりませんか?

 

まあ、言ってしまえば、知識の話であり、単に語彙が不足している、と言うことなのかもしれませんが。

最近、同じようなことを思います。

 

この花は秋になると咲く花である、とか。

この調味料は、普通、何に対して使うものである、とか。

前提の知識がないと意味が分かりにくいのではないか?と。

 

つまるところ。

ある程度の前提となる知識、一般常識というべきものなのか。

それがある、ないでは理解できる範疇が変わってきます。

 

すると、です。

これは、説明文などでよく見られる「語句の意味が分かる・分からない」と同じなのか?

語彙が不足しているというのと、そういった常識的なことを知らない、というのは国語の問題を解くうえで、同じことか、違うことか?

 

 

私の中の結論は、

語彙 ≠ 常識

です。(今のところ)

 

語彙は、身につけようと意識して勉強して身につくものですが、

常識はその逆で、生活の中で無意識的に、または興味に基づいて身についていくものではないか?

と考えています。

 

 

「甲子園」というものに対しても、

夏休みの朝からTVで放送している高校野球中継を見て「甲子園」というワードを聞き、そしてそれが兵庫県西宮市甲子園町にある球場なのだ、と知る。

この流れの中で、「甲子園」という言葉の意味を覚えようと、強く意識することがあるでしょうか?

いや、きっとないでしょう。

 

常識というのは、そういった日常生活の中における体験から培われる知識、いわば「体験知」の集合体なのです。

 

このような常識を前提としてつくられている読解問題は、近年増え続けていると感じます。

英語の長文問題も、かなりその傾向にありますよね。

 

 

常識、体験知。

お子さんの国語の土台となるものは、案外生活の中に転がっている。

かもしれませんね。